主な禅宗寺院

臨済宗 正法山 妙心寺 京都市右京区花園妙心寺町  

自休菴よりの妙心寺の遠景

開山堂 室町末期に再建
正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山である。開基花園法皇(1297−1348)は報恩謝徳の為に花園の離宮を禅刹に改め、大徳寺の宗峰妙超(大燈国師)の法嗣関山慧玄(無相大師)を美濃の伊深からお召しになり、開山としたのに始まる。応仁の乱で、全焼するも雪江宗深(1408〜1486)によって再興され、雪江の門下に景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖沢派)の四哲があり、それぞれ四派を形成した。以後、歴代天皇をはじめ織田・豊臣・徳川及び武将の帰依を受け、さらにを末寺の数は臨済宗14派の半ば約3,500を占めるほどとなる。
本山の境内、約6万坪、諸堂伽藍の完備も、禅宗としては全国一と言われ、七堂伽藍を中心に、約40の子院が軒を列ね、一大法城をなしている。石庭で有名な龍安寺も境外子院である。

臨済宗 霊亀山 天龍寺 京都市右京区嵯峨天龍寺芒の馬場町
霊亀山天龍寺は臨済宗天龍寺派の大本山で、延元4年(1339)、後醍醐天皇の霊を弔うため、足利尊氏が夢窓疎石(夢窓国師)を開山に請じて建立した。夢窓国師は七朝の国師と言われ、幕府一門を始め、官民の帰依厚く、門流から多くの五山詩文の大家を輩出した。庭園は国師の代表作で、大方丈北庭の曹源池の幽蓬・豪壮な石組は、禅庭園の源流をなすものと言われる。
再三、戦火にあい、とくに、元治元年(1864)の兵火で、一山の大半を焼失したが、滴水宜牧、峨山昌禎などの名僧が輩出し、漸次復興した。

臨済宗 慧日山 東福寺 京都市東山区本町15丁目
慧日山東福寺は臨済宗東福寺派の大本山で、関白九条道家が一代の権勢と富をもって20年の歳月を費し、建長7年(1255)完成した大禅林。東大寺と興福寺を併せ寺名とした程大規模であった。開山円爾辮円(聖一国師)は、入宋して無準師範の法を伝えたが、中国五山の建築・見取図を持ち帰り、これを模したと言われる。
約650年間、戦火を免れた諸堂を明治14年の大火で半ば焼失したが、今なお鎌倉様式の山門・開山堂・禅堂など創建当初の壮大な禅院最古の姿を存し、国宝となっている。昭和9年、再建された法堂も臨済宗最大。境内には25の子院が点在し、通天橋のあたりは、もみじの名所として名高い。

臨済宗 竜宝山 大徳寺 京都市北区紫野大徳寺町
竜宝山大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、正和4年(1315)、宗峰妙超(大燈国師)の開創になる。廷慶年間、宗峰は南浦紹明(大応国
 

師)の法を嗣いだのち、東山の雲居庵に住んでいたが、正和4年、赤松則村の帰依をえて紫野に一宇を創建。正中2年、花園上皇は深く宗峰に帰依し、興禅大燈国師の号および勅願寺の院宣を賜わった。また後醍醐天皇も同じく当寺を勅願所とし、元弘3年、寺領を保護、勅により本朝無双の禅苑とされた。
応仁の乱で焼失し、寺勢はとみに衰退したが、文明年間、一休宗純が入寺して再興をはかった。以後、明治維新のさい寺領を上地、多くの塔頭が廃絶したが、その後、昭和5年ごろから一山諸堂の修理を行ない、寺観も一新し洛北の禅寺としてその威容を誇っている。

臨済宗 瑞龍山 南禅寺 京都市左京区南弾寺福地町
瑞龍山南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山で、正応4年(1291)、亀山上皇の発願で開創され、無関普門(大明国師)を拝請し開山とした。翌年、国師遷化後、2世規菴祖円(南院国師)によって完成された。永く京五山の上位に置かれ、皇室の尊崇厚く、宗門の高僧がその法系にかかわらず、勅許により入寺し、紫衣と最高の僧階を受ける名誉の官寺であった。
度々、戦火にあい、当初の伽藍は失われたが、江戸時代に入り、漸次復興、再び寺位を高めた。御所の清涼殿を移した大方丈の襖絵は桃山時代の名匠、狩野永徳の作。前庭の虎の子渡し、金地院の小堀遠州作の鶴亀の庭の名園、八窓の茶室などを有している。

臨済宗 瑞鹿山 円覚寺 神奈川県鎌倉市山ノ内
瑞鹿山円覚寺は、臨済宗円覚寺派の大本山で、開山は宋僧無学祖元(仏光国師)、開基は時の執権北条時宗である。弘安4年(1281)に着工し、翌年12月開堂供養を行った。国師が開堂の説法中に、山中から白鹿の群が現われたので瑞鹿山の号を定めたという。時宗の招きに応じて渡来した国師は、かつて元兵の白刃を前に端然「珍重す大元三尺の剣 電光影裡春風を斬る」の偈を唱えて説法した話は有名である。

臨済宗 巨福山 建長寺 神奈川県鎌倉市山ノ内
建長寺は巨福山建長興国禅寺といい、寺名は年号に因んでつけられ、山号は巨福呂(小袋)の地名からとった。臨済宗建長寺派の大本山である。建長元年(1249)、執権北条時頼の発願により創建され、中国の僧蘭渓道隆(大覚禅師)を請じて開山とした。以後、蘭渓道隆の門徒(大覚派)と無学祖元の門徒(仏光派)が勢力を競って住持し、寺門宗風は大いに興隆した。
足利義満により鎌倉五山の第一位に列せられ、代々将軍家の祈願所となった。度重なる火災により堂宇は烏有に帰したが、寛永年間に徳川家光により再建され、寺観が整えられた。塔頭はもと49院あったが現在は10余院で、全国に末寺500余ヶ寺を有する。

臨済宗 瑞石山 永源寺 滋賀県神崎郡永源寺町
瑞石山永源寺は臨済宗永源寺派の大本山で、康安元年(1361)、近江国の太守・佐々木氏頼が寂室元光(円応禅師)の高風を慕い請じて開山とした。以来、後光厳院の帰依を受け足利義満から寺領の寄進を得て、その祈願所となり、寂室に高弟四禅師が輩出し、永源四派を形成した。その後、度重なる兵火にあうが、寛永昌年(1631)、ときの住持別峯紹印が復興をとげ、寛永20年(1643)に至り、一絲文守(仏頂国師)が後水尾天皇の勅によって住し、また、彦根の城主・井伊直澄が外護者として中興に力を尽くし、現在の寺観を整えた。

臨済宗 摩頂山 国泰寺 富山県高岡市太田
摩頂山国泰寺は臨済宗国泰寺派の大本山で、開山は慈雲妙意(慧日聖光国師)。はじめ、越中二上山に庵を結んだが、嘉暦2年(1327)、後醍醐天皇の勅を奉じて一宇を創建したのに始まる。翌年、親筆の勅額を下賜され国泰寺と称し、北陸第一の禅刹道場となる。応仁の乱後、国泰寺はしばしば兵火に遭い、天文15年(1546)、第27世雪庭祝陽が後奈良天皇の勅によって再興し、さらに、天正年間(1573〜92)二上山から現在の場所に移転した。

臨済宗 御許山 佛通寺 広島県三原市高坂町22
御許山佛通寺は臨済宗佛通寺派の大本山で、応永4年(1397)、沼田城主小早川春平が愚中周及(佛徳大通禅師)を開山に請じて、佛法参禅の道場として建立された。禅師は後に、将軍足利義持の参禅の師となり、室町時代に至り、祈願護国寺として法燈は隆昌を極めた。のち、数度の大火により、寺門は一時荒廃の極に達するも後年、再興につとめ、広島城主浅野の外護により一山堂塔を改修、ようやく旧観に復した後、明治38年独立、大本山として末寺を統轄し現在に至る。開山堂(含暉院)は重文、佛通寺最古の建築物である。

[Top Page]